ベルリンのライティンググループとメランヒトンハウスの話(Wittenbergへの旅2)

こんにちは☆
松浦です。

今日はこのブログをベルリンのMeetupのライティングセッションに参加しながら更新しております。
日本にも同じような会があるでしょうか^^

ここベルリンや、
おそらく世界各国の都市ではMeetupのリーディングやライティングイベントがかなりの頻度で開催されおります。

リーディングの会には本を持って集まり、沈黙の読書時間が一時間、1セッションあります。
ライティングの方は大抵の人はPCかタブレットを持って集まり、
それぞれの課題に取り組む45分のセッションが2回あります。
これまたいろんな方々と知り合うのが面白いのです。

今、私の左に座っている女性はリアルに作家さん、
毎日黙々とどこかで物を書いているそう、
お店の料理を注文せず持ってきたらしきリンゴを堂々とかじっているなかなかの強者!
私の向かいに座っている女性は仕事を辞めて半年東南アジアを旅した旅行記を執筆中。
その横はオペラ歌手をしながら趣味でショートストーリーを書いている方、
その隣にはもう1年以上前から小説を書いていてそろそろ300ページに達する主催者、
私の右隣には何やらショッペンハウワーの本を読みながらジャーナルをつけている初めて会う方、
などが来られていますが、前後におしゃべりする時間はあるものの、
セッション中は私語禁止なので、休憩時間前の現段階では多くは謎に包まれています。


ベルリン各地ではこのような集まりがたくさんありますが、
参加者は結構被っていて、大体どこの会に参加しても誰か知り合いに会うという...😆

同僚や友達というほどの繋がりはないものの、
ちょっとした知り合いと定期的に会ってモチベーションを維持できる場所に属するというのは
精神衛生上大事な事なんだなぁとは
ロックダウン以降みんな自覚しております。
そして時間を決めて集中すると一人ではなし得ないような効率で一時間を有効に使うことができるなぁ。
と、思い私も極力毎週参加するようにしています。
作業系イベントはまさに大人の学校。

さて、
先日訪れたルターの町Wittenbergの続きの件です。
もし今近くに観光でいらしている方がこのブログを偶然読んでくださっているなら、
ルターハウスが閉まっていても気を落とさず
是非その数メートル先のメランヒトンハウスまで足を運んでいただきたいものです。

メランヒトンハウスとは選帝侯ヨハン・フリードリヒが、
学者フィリップ・メランヒトンのために1536年に建てさせたもので、
彼は死ぬまで家族とここで暮らし、仕事に取り組んでいました。
館内は何世紀にもわたってほとんど改築されておらず、この空間は特別な魅力を放っています。
(キッチンの中など現在存在しない釜戸などは、明らかな作り物が代わりに配置されておりますが、)
https://www.luthermuseen.de/museen/melanchthonhaus

メランヒトンは人文主義者であり革命者で最も親しい仲間の一人でした。
彼の存在がなければ、今日のような学校は存在しなかったでしょう。

ルターが熱血系だったのに対して、メランヒトンは体系的、論理的に指導したことで知られています。
もう一つルターと異なる興味深い点としては
メランヒトンは自分の発言内容をお弟子さんではなくて自分自身で
何から何まで記録していたようです。



この館内では、
友人ではありながらも14歳も離れた恩師でもあるルターとの話ではなく
メランヒトンと同年齢でかつ生涯変わらぬ親友であったカメラリウスとの友情エピソードがよく紹介されています。


音声ではメランヒトンの10歳の娘、マグダレーナが家の中を案内してくれます。
子供たちが中世の衣装を着たり、台所の香りを嗅いだり、
家族の食卓に座って食事をしたりして
五感を使って生活感を感じることができます。
私も臨場感を出すため、基本の順番通りに写真を並べたいと思います。

まずハウスの隣にはモダンなチケット販売オフィスがあり、
そこで当日5ユーロの入館料を支払って、館内を見学できます。
ベルリンだったら展示はオンラインで予約して、さらに時間帯もタイムスロット式になっておりますが、
誰でもいつでもウエルカムなスタイル、いいなぁ。



右のグレーの建物が入り口なのですが、わかりにくいです。
鉄格子のドアを見てメランヒトンハウスも閉まってるじゃないかと
驚かれるかもしれませんが、開いています。
Wittenbergのものはなんでも閉まっているように見えますが、よく見るとちゃんと開いているのです(汗)


さて、
チケットを買って、ロッカーに荷物を置くとすぐ先にこのような廊下があります。
この廊下は地上階のほとんどの部屋と繋がっております。




下の写真のこの広い食卓に、多くの学者や学生を集めて
食事会を開くのが好きだったというメランヒトン。
1回の食事会で11ヶ国語が話されるほど国際色豊かなゲストが集まるものの
共通言語はラテン語だったそうです。
その辺、今のドイツの文化との類似点が感じられます。
食事会に全員違う国出身の人が参加して共通語が英語かドイツ語というのはよくある話。

独身の学生を放っては置けなかったというルター(のおせっかい?)で
紹介されて、メランヒトンが迎えた奥さんは、初めは彼のタイプではなかったらしく、
家事も苦手だったそうで
新婚当時は”悲惨な日々”という書き物の中で密かに嘆いていたようです。
しかしそんな夫婦間の愛情も長い年月を経て
子どもたちの誕生を通じて徐々に育まれていったそうです。

晩年奥さんが亡くなった際、メランヒトンは出張中で、
親友のカメラリウスはその事を伝えるために自ら400kmもの旅をしたそうです。
500年前のその距離の移動は大変なものに違いありません。
雨風の中、悲報を抱えてどんな気持ちで向かったのでしょう(涙)




メランヒトンハウスの廊下の奥は庭に通じております。
そこはハーブ園で、特に一見の価値があるのんびりとくつろげる場所だったとのこと。
当時は花壇というより、薬草として実用的だったり、料理に使ったりしたのでしょうねぇ。
(現在はまだそのシーズンではないので何も植物は見られませんでしたので写真は省略します)

廊下の中央には曲線の美しい階段がありました。
上の階には書斎や、住み込みの学生の部屋、教室などがあります。
それからその上の階には湿度などが管理されている博物館的な資料の展示もあり別料金で見られるのですが、
時間が足りなかった為、私はタウンハウスの方だけ訪れていました。

ある部屋の案内の中にはこんなメランヒトンの言葉が掲載されておりました。
”言葉という光で照らしてあげなければ、人に物事という形を理解させることはできない”と。
理性をもつ人間が正しく適切な思考活動を行うことを可能にする基本的ツールが言語である。
そう信じたからこそ生涯にわたって言語に労力を注ぎ続けたのでしょう。
メランヒトンはそのような考えからか、デューラーやクラナッハのように自身とは異なるスキル、
描く才能で世界を表現する芸術家たちの事をかなりリスペクトしていたようです。

教室の中にもクラナッハの作品がいくつも展示されておりました。
ちなみにクラナッハハウスもWittenbergの同じエリアにあります(今回は行けず💦)




学生たちの寝床。
人数は不明ながらメランヒトンはある時期から自宅に住み込みの学生を有料で受け入れていて、
自宅で学校のようなものを開く形式で教えていたようです。
学生たちは9時までに起きて食事の準備をするなど、勉強の他にも仕事があったようで、
彼らの消費する食品のコストの事などが資料に残っていました。
ちょっと寺院の暮らしみたいですね!?

メランヒトンが死を迎えた部屋も紹介されます。


死因は不明ながら肺炎だったのではないかとのこと。
彼が死に際まで書いていた手紙か遺書かの原本は観光客によって持ち去られ紛失。
一体何が書かれていたのか、今ではコピーも残っていないそうです。

この場所を訪れるまで私はメランヒトンさんのことをほとんど何も知りませんでした。
ですが、立ち去る頃にはそこに呼ばれたのは神の導きだったのではないか
と思えるほどこの人物が大切な存在に感じられるようになっていました。
このメランヒトンハウスの訪問は、500年前と現在と自分がしっかり繋がっていることを教えてくれる
素晴らしい体験となったのでした。
(そういえば宿泊したゲストハウスの入館コードも私の誕生年マイナス500年だったし。)

そしてこのメランヒトンハウスも貸切かというくらい見学者はこの時間私一人でした。
ですので、写真には誰も写っていません。

世界遺産がたくさんあるにも関わらず過小評価されすぎな町。
Wittenberg...
短い滞在ではありましたが訪れてみて本当によかったです。


尚、クラナッハやデューラーの古書は当ショップにもよく入荷しますので
よろしければご覧になってみてください。
https://archangel.ocnk.net/product/2824



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https://archangel.ocnk.net/product/4600



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